フランス宗教戦争
1562–1598
1562〜1598年、カトリックとユグノーの対立、王位継承と貴族抗争、外国介入が重なった一連の内戦である。一つの連続戦闘ではなく、休戦と再燃を繰り返した。

- 年代
- 1562–1598
- 種類
- 戦争
- 地域
- ヨーロッパ
- キーワード
- ユグノー · カトリック同盟 · アンリ4世 · ナントの勅令 · 内戦
出来事をたどる · 4つの局面
背景
宗教改革で信仰共同体が分かれ、幼王期にはカトリーヌ・ド・メディシスが王権を支えた。王家の弱体化、貴族派閥、スペインなど外国勢力が宗派対立を軍事化した。
- 宗教改革が広がると、それまでカトリックの制度を共有していた地域社会が宗派によって分かれていった。
- 1534年の檄文事件を機に王権は弾圧を強めたが、ヴァロワ朝は対立する有力貴族を抑えきれなかった。
- カトリーヌ・ド・メディシスは宗派間の妥協と王権維持を図ったものの、1562年のヴァシーでの殺害が戦争への引き金となった。

経過
ヴァシー事件後に内戦が始まり、虐殺、包囲、三アンリの戦いへ展開した。ボダンは再戦費に反対し、モンテーニュは融和とアンリ支持に動き、フェリペ2世はカトリック側へ介入した。
- ユグノー勢力とカトリック勢力の間では、戦闘と休戦、再開が入り交じる八次の戦争が続いた。
- 都市での虐殺や包囲戦、有力貴族の離合集散によって、争いは宗教だけでなく政治の戦争にもなった。
- フェリペ2世によるカトリック同盟への支援など外国勢力の介入が、フランス内部の対立をさらに広げた。

結果
アンリ4世は改宗と軍事勝利で王位を固め、1598年のナント勅令が限定的な信仰共存を定めた。戦争は終わったが、宗教的不平等と緊張は残った。
- ナバラ王アンリはカトリックへ改宗したのちブルボン家の王位を固め、1594年にアンリ4世としてパリへ入城した。
- 残る敵を破るか和解へ導き、都市と地方への王権を回復していった。
- 1598年のナントの勅令はユグノーに限定的な権利を認め、内戦の連鎖を終わらせた。

歴史的意義
戦争は宗教、王朝、国家形成が結びつく近世政治を示す。ブルボン王権の再建と寛容政策を促した一方、妥協が恒久的権利ではなく王権の決定に依存する限界も示した。
- この決着は、一つの王権の下で二つの宗派が共存するための現実的だが不平等な枠組みをつくった。
- ジャン・ボダンやモンテーニュは、戦争で社会が分裂するなか、秩序や節度、融和をそれぞれ訴えた。
- ただし宗派間の敵意は消えず、1598年に認められた保護も王権に依存するものだった。

関連人物
関連する出来事
1534年
檄文事件

反カトリックの檄文が各地に掲示され、王権によるプロテスタント弾圧が強まった。
1562年
ヴァシー虐殺

ギーズ公の従者がプロテスタントの集会を襲い、第一次戦争の発端となった。
1562年〜1598年
フランス宗教戦争
現在の出来事

宗派と政治の両面で対立する勢力が、八次にわたる内戦を繰り返した。
1594年
アンリ4世がパリ入城

改宗したブルボン家の王が首都へ入り、国内統一へ大きく前進した。
1598年
ナントの勅令

アンリ4世はカトリック王国の中でユグノーに限定的な市民権と信仰上の保護を認めた。





