ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡
375–476
375年ごろから476年、フン勢力の拡大、諸集団の移住と軍事行動、内戦と財政・統治の弱体化が重なり、西ローマ皇帝位が消滅した。

- 年代
- 375–476
- 種類
- 運動
- 地域
- ヨーロッパ
- キーワード
- 民族移動期 · 西ローマ帝国 · ゴート人 · フン族 · 後継王国
出来事をたどる · 4つの局面
背景
3世紀以来の内戦と軍事費は帝国を圧迫し、ライン・ドナウ辺境ではローマ軍への非ローマ人登用、交易、外交、集団移住が長く併存した。
- 3世紀以来の内戦、短命政権、軍事費の増大は、帝国の財政と統治資源を圧迫した。ライン・ドナウ辺境では戦闘だけでなく、交易、外交、軍務、集団移住が長く併存していた。
- 後期ローマ軍には帝国外出身者や移住集団が同盟者・兵士として組み込まれた。ローマ人と「蛮族」を固定した二陣営とみなすだけでは、混合した軍事・政治関係を捉えられない。
- 370年代、フン勢力の西進を受けたゴート人集団がドナウを渡ってローマ領への受け入れを求めた。移住者の処遇と補給をめぐる管理の破綻は対立を深め、378年のアドリアノープルの戦いへ至った。

経過
370年代のフン勢力拡大でゴート人がドナウを渡り、378年のアドリアノープル、410年のアラリックによるローマ略奪、451年の対フン連合、455年のヴァンダル占領へ続いた。
- 378年の敗北後も、移住集団は侵入者としてだけでなく、交渉相手、同盟軍、地方の支配者としてローマ政治に関わった。帝国内の権力争いと辺境の変化は相互に影響した。
- アラリックが率いる西ゴート軍はバルカンとイタリアを転戦し、410年にローマを略奪した。事件は西方皇帝権の弱まりを示したが、都市ローマと帝国制度がその時点で消滅したわけではない。
- アッティラの軍事圧力は東西ローマと諸集団の外交・同盟を動かした。451年のガリアではローマ軍とゴート系を含む同盟勢力が共同し、単純な民族国家同士の戦いとは異なる構図を示した。

結果
西側の領域支配はイタリアへ縮小し、476年にオドアケルがロムルス・アウグストゥルスを廃位した。西方では諸王国が成立し、東ローマ皇帝権は存続した。
- 455年には北アフリカを拠点とするヴァンダル軍がローマを占領・略奪した。西側政府は重要属州と税収を失い、領域支配はしだいにイタリアへ縮小した。
- 476年、軍事指導者オドアケルは若い皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した。西方の皇帝位は途絶えたが、オドアケルは東方皇帝との関係を保ちながらイタリアを統治した。
- ガリア、ヒスパニア、北アフリカ、イタリアでは後継王国が成立した。新しい支配者はローマの行政人材、法、税制、都市を選択的に引き継ぎ、政治秩序を組み替えた。

歴史的意義
476年は西の皇帝位の終点だが、行政、法、都市社会は一夜で消えなかった。ローマ的制度と移住集団の政治が組み替わり、中世西欧の諸王国へつながった。
- 476年は西の皇帝位の終点として有用な節目だが、行政、法、都市社会、キリスト教制度が一夜で消えたことを意味しない。政治的断絶と制度的継続を同時に見る必要がある。
- 西ローマ支配の縮小は、一つの民族移動や一度の戦いだけでなく、内戦、財政負担、軍制、交渉された移住、侵攻、属州喪失が重なった長期的変化だった。
- コンスタンティノープルの皇帝と国家は476年後も存続し、西方の諸王国との関係を築いた。西方の後継王国と東ローマの継続は、古代末期から中世への複数の道筋を示す。

関連人物

アラリック
西ゴート軍の指導者
西ゴート人を率いてバルカンとイタリアを転戦し、410年にローマを攻略した。ローマ軍制や同盟関係の内部で活動した経歴は、この時代を単純な外敵侵入として捉えられないことも示す。

アッティラ大王
フン勢力の王・軍事指導者
5世紀に東西ローマ帝国へ軍事・外交上の圧力を加え、451年にはガリアへ進攻した。彼に対抗した軍もローマ人と諸同盟勢力の混成であり、当時の政治的結びつきの複雑さを映す。

オドアケル
476年以後のイタリア支配者
ローマ軍に組み込まれた兵士集団の指導者として台頭し、476年にロムルス・アウグストゥルスを廃位した。西の皇帝位を置かず、東方皇帝との関係を残してイタリアを統治した。
関連する出来事
235年〜375年
後期ローマの内戦と辺境負担

短命政権、軍事費、地方権力の変化が統治資源を削る一方、ライン・ドナウ辺境では移住、奉仕、交易、衝突が併存した。
370年〜378年
フンの圧力とゴート人のドナウ渡河

フン勢力の西進でゴート人集団がローマ領への受け入れを求め、管理の破綻と対立は378年のアドリアノープルの戦いへ至った。
375年〜476年
大移動期と西の皇帝位の消滅
現在の出来事

移住、同盟、反乱、侵攻、内戦、属州喪失が重なり、ローマの西方支配は縮小し、476年に西の皇帝位が途絶えた。
476年〜568年
西方の後継王国

イタリア、ガリア、ヒスパニア、北アフリカでは、移住集団の支配者がローマの人材、法、税制、都市を選択的に引き継いだ。
476年〜1453年
東ローマ帝国の継続

コンスタンティノープルの皇帝と国家は476年後も存続し、西方の諸王国に対する権威を主張しながら独自の歴史を歩んだ。
参照資料
- The Roman Empire (27 B.C.–393 A.D.)The Metropolitan Museum of Art後期帝国の再編、ゴート人のドナウ渡河、378年と410年の転機、476年の廃位、東ローマの継続を確認する。
- Barbarians and RomansThe Metropolitan Museum of Artライン・ドナウ辺境の軍務、交易、外交、移住と、ローマ人・非ローマ人の混合した物質文化を確認する。
- The Novels of Justinian: A Complete Annotated English Translation, introduction excerptCambridge University Press西方属州の喪失、476年の廃位、後継王国の自立と東方皇帝の継続を確認する。
- Administrative Shifts of Competence under TheodericCambridge University Press / Traditio476年後のオドアケルとテオドリックの統治下における行政上の継続を確認する。
- Where are the Romans? What Attila's War Reveals about Barbarian Integration in the Late Roman EmpirePrinceton University451年のガリア進攻、ローマ軍と同盟勢力の混成、単純な民族分類の限界を確認する。
- Rome after the 455 Vandal OccupationCambridge University Press455年のヴァンダル占領・略奪と、その後も続いた都市・政府機能を確認する。
