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第二次エチオピア戦争

1935–1936

1935年から1936年、ムッソリーニ政権のイタリアは独立国エチオピアへ侵攻し、近代兵器と化学兵器を用いて首都を占領した。

エチオピア高原の道を荷物を載せた動物と人々が進み、遠方に車列と航空機が見える場面
再現注記: 教育用に作成した再現イラストであり、当時の記録画像ではありません。
年代
1935–1936
種類
戦争
地域
アフリカ
キーワード
第二次エチオピア戦争 · エチオピア侵攻 · アドワ · 国際連盟 · 集団安全保障

出来事をたどる · 4つの局面

  1. 背景

    1896年のアドワでの敗北はイタリア植民地主義の遺恨となった。ファシスト政権の征服構想と1934年のワルワル事件をめぐる危機が侵攻へつながった。

    • 1896年のアドワの戦いでエチオピアはイタリア軍を退け、独立を守った。この敗北はイタリアの植民地主義とファシスト政権にとって長く残る遺恨になった。
    • ムッソリーニ政権は東アフリカでの植民地拡大を、国内の威信と帝国建設を結びつける計画として進めた。エリトリアとソマリランドの植民地拠点が侵攻の出発点になった。
    • 1934年12月のワルワル事件をめぐるイタリアとエチオピアの対立は、国境管理と安全保障の危機へ拡大した。外交交渉が続く一方、イタリアは軍を集結させた。
    エチオピアの高地の集落で、長老と若者が古い銃、鞍、土器を前に話し合う場面
  2. 経過

    1935年10月、イタリア軍はエリトリアとソマリランドから侵攻した。装備で劣るエチオピア軍と住民に対し、航空攻撃とマスタードガスを含む化学兵器が用いられた。

    • 1935年10月、イタリア軍は北部のエリトリアと南東部のソマリランドからエチオピアへ侵攻した。エチオピア軍は広い地域で抵抗したが、装備と航空戦力で大きな差があった。
    • イタリア軍は航空攻撃、砲撃、装甲車両を組み合わせ、軍人だけでなく道路、集落、補給線を攻撃した。マスタードガスを含む化学兵器の使用は、民間人にも深刻な被害を与えた。
    • エチオピア政府は国際連盟に訴え、皇帝ハイレ・セラシエは1936年6月の総会で援助を求めた。しかし戦場ではイタリア軍の前進が続き、国際的な抗議は侵攻を止められなかった。
    高地の補給路を人々と荷物を載せた動物が進み、遠くに航空機が見える場面
  3. 結果

    1936年5月にイタリア軍がアディスアベバを占領し、エチオピアはイタリア領東アフリカへ併合されたが、武装抵抗は続き、1941年に主権が回復した。

    • 1936年5月、イタリア軍はアディスアベバを占領し、エチオピアをエリトリア、イタリア領ソマリランドとともにイタリア領東アフリカへ組み込んだ。占領は国際的な承認を得たわけではなかった。
    • 首都の占領後も、各地で武装抵抗と地下活動が続いた。道路や高地をめぐる戦闘、報復、拘束は、植民地支配が単純な行政移管ではなかったことを示している。
    • 第二次世界大戦の東アフリカ戦線でイギリス軍とエチオピア側の部隊が攻勢に転じ、1941年にイタリア軍は退けられた。エチオピアの主権は回復したが、占領の傷は残った。
    アディスアベバの通りで市民と荷物を載せたトラックが描かれた場面
  4. 歴史的意義

    国際連盟は侵略を認定して制裁を科したが、戦争を止められなかった。集団安全保障の限界と化学兵器による民間被害は、戦間期国際秩序の破綻を示した。

    • 国際連盟はイタリアの侵略を認定し制裁を科したが、石油禁輸やスエズ運河閉鎖を含む措置は採られず、加盟国の利害の前に集団安全保障の約束は空洞化した。
    • この戦争は、植民地支配を受ける国の主権が欧州列強の秩序のなかでどのように扱われたかを明らかにした。エチオピアの訴えは、国際法と人種化された権力の矛盾を突きつけた。
    • 化学兵器と航空攻撃による民間被害、侵略に対する不十分な制裁、抵抗の継続は、第二次世界大戦前の国際秩序が崩れていく過程を理解する重要な手がかりになる。
    外交会議の机で無記名の文書を前に話し合う代表と、記録用紙を持つ係員が描かれた場面

関連人物

関連する出来事

  1. 1896年

    アドワの敗北と独立の記憶

    使い古した鞍、布袋、木箱、槍を思わせる道具が粗い布の上に置かれた場面

    1896年、エチオピア軍はアドワでイタリア軍を破り、独立を守った。この敗北の記憶は、後のイタリアの再征服構想に結びついた。

  2. 1934年

    ワルワル事件と国境危機

    乾いた井戸の周囲をラクダと偵察する人々が行き交い、遠くに低い丘が見える場面

    1934年、ワルワルの井戸をめぐる衝突はイタリアとエチオピアの外交危機を深めた。紛争処理の遅れは侵攻準備の時間を与えた。

  3. 1935年〜1936年

    侵攻とアディスアベバ占領

    現在の出来事

    高地の尾根を進む車列と航空機を、遠くから人々が見守る場面

    1935年10月に侵攻が始まり、航空攻撃と化学兵器を含む圧倒的な軍事力が投入された。1936年5月、イタリア軍は首都を占領した。

  4. 1936年〜1941年

    占領下の抵抗と主権回復

    森林の峡谷で、荷物を運ぶ人々が岩陰の補給路を進む場面

    首都の陥落後も各地で抵抗が続き、第二次世界大戦の東アフリカ戦線でイタリア軍は後退した。1941年、エチオピアの主権が回復した。

  5. 1935年〜1936年

    制裁の限界と集団安全保障の破綻

    外交会議の机で、無記名の文書を前に代表と救援係員が座る場面

    国際連盟は侵略を認定したが、制裁は戦争を止められなかった。加盟国の利害が、集団安全保障の実効性を制約した。

参照資料